オホーツク文化は北海道の文化やアイヌ文化とも異なっており、北方民族の独特な風習や暮らしぶりが面白いとして、観光における注目も集めています。
そこで今回は、オホーツク文化を細かくご紹介!オホーツク文化の成り立ちや当時の様子がわかる情報とともに、詳しく解説していきます。
オホーツク文化の起源
オホーツク文化は、約1500年前〜800年前(5〜12世紀)の時期に存在しました。この文化は続縄文時代の終わりから擦文時代に重なる頃にオホーツク海沿岸部を中心に広がっていたもので、擦文文化を担った人々とは異なる外来の民族によって形成された文化です。この文化は、住居のつくりや道具などから生活分野が独特なものであることが分かっています。
オホーツク文化の遺跡は、サハリンや北海道北部・東部から千島列島にかけての海岸沿いで見つかっており、この地域において海辺での暮らしに特化した海洋民族であったと考えられています。彼らは漁撈や海獣狩猟などを主な生活手段としていました。
また、10世紀頃、オホーツク文化は擦文文化との接触によって変化を遂げました。この変化した文化はトビニタイ文化と呼ばれ、12世紀頃まで続いたことが知られています。
トビニタイ文化では、オホーツク文化の一部の人々が擦文文化の人々と混血した可能性が考えられています。また、オホーツク文化の特徴であるクマを崇拝する風習なども、その後のアイヌ文化に影響を与えたのではないかと考えられています。
オホーツク土器
オホーツク文化の人々は擦文文化の人々とは全く異なる土器を作っていました。口の広い壺形で、細長い粘土紐を使った装飾文様が付けられており、形状が素麺(そうめん)を連想させることから「ソーメン文・ソーメン状貼付文」とも呼ばれています。
擦文土器と違うのはデザイン面。土器のデザインに動物のモチーフが表れるのが特徴的で、ソーメン文に加えて海鳥など動物の模様付けがされている土器も発見されています。
上の画像は、オホーツク文化後期の竪穴住居あとから出土した土器で、一つ一つの大きさが異なることがわかりますね。一番大きいもので器高が43cm、一番小さいもので3cmのものまであります。
住居の骨塚周辺では特大・大形品、それ以外の空間では中・小形品がまとまる傾向があり、竪穴住居での生活に想像を膨らませることができます。
オホーツク文化の住居
オホーツク文化の人々は、竪穴住居と呼ばれる住居に住んでいました。これは擦文文化の住居と同じなのですが、五角形または六角形の平面形をしているのが特徴で、大きさも長さが10m程度と大型です。
家を造るときは地面を深く掘ることから始まります。掘りあげた土砂は外縁部に盛り上げられ、周堤を築きます。屋根は針葉樹を加工して骨組みを組み、その上から乾かした樹皮や葉などを覆い屋根をつくります。
そこに被せるかたちで土を放り、建物の密封性を高め、室内の暖房効果を維持します。
1軒で20〜30人が暮らし、住居の真ん中が共有スペース、端が寝床や個人のスペースだったと推定されています。
オホーツク文化の彫刻
オホーツク文化の遺跡では、動物の骨や牙を素材とした彫刻がしばしば見つかります。彫刻の多くが動物を表現しており、中でも、海洋民族にふさわしくラッコのような海獣など、海に関連するデザインが多いです。
もうひとつ特徴的なのがクマの彫刻。クマの全身像のほか、杖の先に熊の頭を彫刻したものもあります。
オホーツク文化の人々にとって、クマは特別な動物であったようで、クマを崇拝する風習があったと考えられています。
オホーツク文化の墓
オホーツク文化では、亡くなった人を弔う文化があり、墓の作り方にも独特の作法が存在します。亡くなった人の頭には土器をかぶせて埋葬する方法が広く行われており、オホーツク人の墓を発掘すると上下ひっくり返った状態の土器が見つかります。
それ以外にも副葬品として、刀剣や装身具などがしばしば発見されています。そうした品々の多くはオホーツク人のお手製というわけではなく、周辺地域との交易によって入手したものでした。
銀製の耳飾りなどは大陸に由来するものが含まれており、広い地域との交流があったことがわかっています。
まとめ
この記事では、オホーツク文化について詳しくご紹介しました。
本州の文化、北海道の文化ともまた違う発展を遂げてきたオホーツク文化。独特な文化だからこそ、知れば知るほどおもしろい。
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